ウエストライナーズが「マヌエラ」で活動していた頃(1961年)。
故伏見哲夫(tp)故鈴木重男(as)原田忠幸(bs)私、前田憲男(p)故滝本達郎(b)中牟礼貞則(g)
第1期WE3ベーシスト故滝本達郎氏(左)。この3人で毎週金曜日、日本テレビの番組「11PM(イレブンピーエム)」に出演。前田氏は "釣りの名人" として、釣りのコーナーにもレギュラー出演していた。(1970年頃)
WE3のファーストアルバム「アルファ・レイ」(故滝本達郎(b))レコーディング中
第2期WE3ベーシスト鈴木淳氏。
写真はLP「四季」(1972年)
1970年前半頃。
現在のベース荒川氏が加入して間もない頃、全国のライブハウスをまわっていた。
猪俣 猛
私が16才の頃である。名前は忘れたが、とある関西のジャズ喫茶(ライブハウス)で、宮川泰さんなど関西では名の通ったミュージシャンが集まり、ジャムセッションが行われるという話しを聞きつけ、早速行ってみることにした。当時のジャムセッションは人の出入りも激しく、今となっては、私が誰とセッションをしたのかもはっきり覚えてないが、この日、前田憲男氏は私とセッションをしたことを、ある理由で覚えていたらしい。
自分よりも年下だったことだ。当時前田氏は高校を卒業したばかりの18才、新進の若手ピアニストとして活躍、自分より年下の楽隊がいるとは、そして彼の私への第一印象は「お主(ぬし)!できるな」。今となってはたった2才しか違わないと思うが、10代の若者にとっては、2才の年の差は大きかったのであろうか。現在も私は「永遠のライバル!」と言っているが、この武蔵と小次郎の戦いは出会いの時からすでに始まっていたようだ(笑)
私はその後、「前田憲男」という名前をいろいろなところで聞くようになり、常に気になる存在でもあった。彼はいつもベニヤ板の上に鍵盤の書いた紙が貼ってあるものを抱えていた。前田氏は上京し、半年後に私も上京、私は憧れの三保敬太郎(p)さんが所属する「渡辺明とエンバース・ファイブ」へ入団、三保敬太郎さんと西條孝之介さんは、慶応大学の有名な「クールノーツ」という名門バンド出身で、一目置かれている存在だった。
上京後は今の日比谷公園の中にあるナイトクラブ「日比谷クラブ」で仕事を始めた。そこでは土曜日、いろいろなミュージシャンが顔を出すジャムセッションがあり、私にとって恵まれた環境であった。
一方前田氏は「西條孝之介(sax)とウエストライナーズ」へ入団、田村町の当時最高のナイトクラブ「マヌエラ」で仕事をしていた。
私はエンバース・ファイブ解散後、シックスジョーズに所属してしたが、ウエストライナーズの初代ドラマー五十嵐武要さんが結核で入院し、私に声がかかった。急きょ借り出された形ではあったものの、あの一目置かれている西條孝之介氏や噂の前田憲男氏と憧れのバンドで演奏できることに感激であった。結局そのまま正式メンバーとして迎えられ、この頃のベーシスト金井英人氏の脱退後、滝本達郎氏が加入、ここで初代WE3が揃った形となった。
ウエストライナーズの仕事はナイトクラブが主で、ダンスミュージック中心の毎日に、徐々に物足りなさを感じていた。
そんな時、銀座にろ〜くというジャズ喫茶がオープンし、マスターの飯田さんから私に出演してみないか、と声がかかった、銀座ろ〜くでは、ウエストライナーズのメンバー全員が入りきれないスペース的な問題もあり、私、前田氏、滝本氏のリズム隊で出演、これがWE3での最初の演奏となった。
その後、3人でLP録音、ラジオなどに出演するようになり、少しづつ全国に名が知られていき、全国を旅することも多くなった。
命名は実は私で、リーダー名を出さないが、ひとりひとりが「私だ」という意味も込めて「WE3 (ウィスリー)」と名付けた。
そんな頃、ベースの滝本氏が体調を崩し、鈴木淳氏が参加、その1年後には荒川康男氏になり、ここで現在のWE3のメンバーが揃った。
同じく関西出身の荒川康男氏は、私の約3年後に上京、「沢田駿吾とダブルビーツ」に在籍した。まじめで穏やかな性格の彼は、演奏上、アクの強い私と前田氏の間をうまく調和してくれた。時に私と前田氏のどちらかが小節がずれたり、半拍違ってたりしても、2人とも譲らず、つっぱしる。荒川氏は中間に挟まれ、どちらについていいのかわからなくなってしまうこともあったが、うまく調整してくれた。

こんなことがあった。前田氏が連日連夜寝る間も惜しみ、アレンジの作業、音楽に関しての勉強に没頭し、ライブ演奏中にスキャットしたと思うと寝ている・・・ということがたびたびあった。それは毎晩遅くまでアレンジの勉強を続ける前田氏に、デスクワークのようなアレンジャーにはなって欲しくなかった。ライブのような現場で演奏することは、新鮮な感覚、多くの情報も得られる。私は、無理矢理引っぱって来てでもステージをやって欲しかった。

彼のアレンジの魅力は1曲の中で変化に富んだ、他には見られない色彩感がある。そしてピアノというたったひとつの楽器で、時にはトランペットの音、木管楽器の音、といろんな音が飛び出してくる。今思うと、あの若き日、時間さえあれば、ベニヤのピアノで勉強し、多くのピアニストのコピーをし、それも徹底的に。それがこのような形になって表れたのだろう。
WE3は穏やかに時間が流れていった。現在も我々はジャズナンバーにこだわらず、いい音楽には常に挑戦し続けるというポリシーがある。半世紀経った今なお、そのスタイルは変わらない。時々ライブでは言っているが、音楽部長:前田憲男、営業部長:猪俣猛、人事部長:荒川康男、長年つき合っているからまぁまぁ、というような馴れ合いには決してならず、いい音楽に挑戦し続ける一貫した3人のポリシーのもと半世紀、今もなお追求し続ける。